日本では社会保障費の増加に伴い、医療制度への批判的な意見が増えています。「医療を規制緩和すれば効率化するのではないか」という主張がその代表例です。しかし、医療経済学の研究成果は、この考えに明確な反論を示しています。
UCLA准教授で医療政策学者の津川友介氏は、noteの記事「なぜ医療に市場原理は通用しないのか?」で、医療に市場原理が通用しない理由を体系的に解説しています。津川氏によれば、医療保険では「モラルハザード」と「逆選択」、医療サービスでは「情報の非対称性」「不完全競争」「緊急性と予測不能性」「医療保険による市場のゆがみ」「外部効果」の計7つの要因が市場原理の機能を阻害します。本稿では、この記事の内容を紹介しながら、医療における市場の失敗について解説します。
先進国はなぜ医療を規制するのか
津川氏は記事の冒頭で、先進国における医療規制の普遍性を指摘しています。規制が最も緩いとされるアメリカでさえ、医療は強い規制のもとで管理されています。医療が規制されていないのは、医療保険も医療機関も整備されていない発展途上国のみであり、先進国はすべて医療に規制を導入してきた歴史があります。
この背景には、医療では市場原理が機能しないという経済学的な事実があります。津川氏は「医療経済学は医療における市場の失敗(Market failure)を学ぶ学問だと言っても過言ではありません」と述べています(津川友介「なぜ医療に市場原理は通用しないのか?」note、2025年12月22日)。医療を規制緩和すると、患者の医療費は高騰し、医療へのアクセスは悪化するというのが経済学の示す結論です。
医療保険に市場原理が通用しない2つの理由
医療保険で市場原理が機能しない理由は、モラルハザードと逆選択の2つです。これらは医療経済学における最重要概念とされています。
モラルハザードとは、医療保険によって患者の自己負担額が本来の価格より低くなるため、需要が経済学的に最適な水準を超えてしまう現象です。津川氏の別記事「モラルハザードとは、コンビニ受診のことである」によれば、これは道徳的な問題ではなく、合理的な人間であれば当然起こる行動パターンの変化です。日本でいう「コンビニ受診」が、経済学でいうモラルハザードに該当します。
逆選択とは、不健康な人ほどカバーの手厚い医療保険を購入し、健康な人ほど安価なプランを選ぶ現象です。津川氏の記事「医療経済学の「逆選択」ってなに?」では、ハーバード大学の医療保険プランで実際に起きた「逆選択の死のスパイラル」の事例が紹介されています。1995年から1998年にかけて、高価で手厚いプランは高リスクの人ばかりになり保険料が高騰、最終的に市場から撤退に追い込まれました。
医療サービスに市場原理が通用しない5つの理由
医療サービスにおいても、市場原理は機能しません。津川氏は5つの理由を挙げています。
第一の理由は、情報の非対称性です。患者は病院に行く前に自分がどのような検査や治療を必要としているか分からず、医療費がいくらかかるかも把握できません。医師からMRIが必要と言われれば、その判断の妥当性を評価することは困難です。テレビを購入する際には価格や機能を比較検討できますが、医療サービスではそれが難しいのです。
第二の理由は、不完全な競争市場です。大都市圏を除けば、同じ機能を持つ病院が地域に1つしかないことは珍しくありません。選択肢が限られた状態では、競争原理は働きません。アメリカでは医療機関の統合が進んだ結果、医療の質は改善せず医療費だけが高騰するという現象が認められています。
第三の理由は、多くの病気の緊急性と予測不能性です。胸痛で病院を受診したところ急性心筋梗塞と診断された場合、その段階で隣町の評判の良い病院に移ることは難しいのが実情です。痛みや呼吸苦などの症状があれば、冷静な判断すら困難になります。このような状況では、病院側が価格を吊り上げても患者は「ノー」と言えません。
第四の理由は、医療保険による市場のゆがみです。自由市場では売り手の価格と買い手の支払意思額が均衡しますが、医療保険があると患者は3割負担で済むため、保険がない場合より多くの医療サービスを希望します。自由市場を導入しても、取引量は経済学的な最適水準を超えてしまいます。
第五の理由は、外部効果です。感染症の治療を例にとると、患者を治療すれば本人だけでなく周囲の人々も病気に感染するリスクが減ります。このような正の外部効果がある場合、自由市場に任せると取引量は社会的に最適な水準を下回ってしまいます。
アメリカのオバマケアに見る「規制された市場」
津川氏は、アメリカのオバマケアを「規制された市場」の例として紹介しています。アメリカでは民間保険会社と民間医療機関が強大な力を持っていたため、日本のような社会保険制度の導入は政治的に不可能でした。そこでオバマケアでは、市場の失敗を最小限にとどめるための規制を整備する方法が採られました。
この事例は、医療には市場原理が通用しないため、何らかの規制が必要であるという経済学の知見を裏付けています。医療は規制がないよりもあった方がうまく機能し、経済学的に最適な状態に近づくと考えられています。
まとめ
医療に市場原理が通用しない理由は、医療保険の2つの要因と医療サービスの5つの要因、計7つに整理できます。モラルハザード、逆選択、情報の非対称性、不完全競争、緊急性と予測不能性、医療保険による市場のゆがみ、外部効果です。これらの要因により、医療を規制緩和しても効率は改善せず、むしろ医療費の高騰とアクセスの悪化を招きます。津川氏の記事は、医療経済学の視点から医療制度を理解するための基礎を提供しています。
参考文献
津川友介「なぜ医療に市場原理は通用しないのか?」note、2025年12月22日
津川友介「モラルハザードとは、コンビニ受診のことである」note、2024年10月16日
津川友介「医療経済学の「逆選択」ってなに?」note、2024年11月12日










